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オレンジ色の太陽

君じゃなきゃ意味が無い

ビニールの城を観ました

 

ご無沙汰しております。

この度剛くん出演の舞台「ビニールの城」を観賞してきたので感想を綴ります。

舞台観賞は高校の演劇教室以来という相当のブランクを抱えた初心者なので、そこは大目に見ていただきたいのと、観賞後に誰かの解釈解説を読んでもいないのでとても個人的な内容になることはあらかじめご承知おきください。

 

 

「なーんてジメジメした陽気だろっ」

 

 

声が違う。そんなの当たり前だと舞台ファンからは言われるかもしれない。でもあまりの衝撃だった。発声の方法が違うのはわかっている。でも声が違う。声が違うというのは、「演じる」ことの発現の中でもあまりにわかりやすいものの一つだと思う。これは「お話」なんだ、と一番身体として理解できる要素だと思う。剛くんの第一声を聞いたとき、「あ 剛くんじゃない」と思った。当たり前のことを当たり前に突き付けられた。剛くんじゃなくて、私が今見ているのは「朝顔」なんだ。私はいつまで森田剛を見ているんだろうと思った。そう思うくらい、聞きなれている剛くんの優しい掠れた静かな声じゃなかった。掠れてはいたけど、剛くんがしゃべっているのではない、どこから声を出しているのだろう、と思うような、いやこれが森田剛朝顔なんだと三言目を聞くころには猛烈な理解をした、というのが開演から数分の出来事で忘れられない。そこのはしごを身軽に上っているこの人は誰??ゆうちゃーんと掠れた大声で叫んでいるこの男を私は知らない。と思うと同時に、この舞台の世界に、俳優陣がつくる世界に、急激に引っ張られた気がする。

 

朝顔、モモ、夕一の三人のセリフの量が半端ではなく、一回に口に出す言葉の多さに圧倒された。その言葉を一つずつ頭に入れて、言葉として認識し、文章として組み立て、それを理解するには早すぎ、多すぎるほどの量だった。理解するのを待ってほしいと思う反面、この怒涛のように流れていく一人語り、二人の応酬、その両方が心地よかったのも事実としてある。この量のセリフを語るとなると、ただセリフを追うとなりがちである。全て間違いなく言おうと思うと、次はこれ、次は…となって次を予想し想定し、自然のとっさに口をついたと思わせるような素振りや表情にはなりにくいと思う。そこが会話劇のむずかしさであり、俳優の腕の見せ所でもあると思うので、個人的には大好物である。脚本家が紡いだ言葉を、言葉として生かすのは俳優なんだと、生かしている瞬間を見ているような気がするからである。思い出されるのは「最高の離婚」「ゆとりですがなにか」といった、街中の、そこにいる、ありふれた人たちの今この瞬間の会話を切り取ったような、そのみずみずしさ、生々しさが大好きだ。だから、この三人の会話に圧倒され俳優陣の力量の高さに感嘆したこの舞台は最高に好きだった。本当にもう一度観たい。出てくる言葉のやりとりも、文学的であったりギャグが混ざっていたり妙に現代的だったりと、変幻自在で飽きが来ない流れが止まらない。そこがあまりにも私には面白くて、内容を理解しようとしつつこの最高の語りと会話の生産現場を観て楽しんでいたいと思っていたから、脳はかなりの興奮状態だったと思う。

 


目が合った。

と思った。でもコンサートの時のそれとはまったくの別物だった。目が合ったというよりは、私の目の中に朝顔の見る諸君がいただけだし、朝顔がたまたま私の額に霧を見ただけだ。だからドキドキもしなかったし、もう一度と願うこともなかった。ただ、テレビと違って今まさに自分の目の前で別の世界が広げられていて、その終端に自分がいるんだと感じる、それこそ臨場感を感じたというのが大きい。見られていると感じたときは、私の目を見ているわけではないから、自分のものすごく奥の方中の方まで見られているような気がした。朝顔は私の目の中に浅草を見ているのだとしたら、それはあまりに近くて遠いから、人を見る目ではないから、すごい力を持った視線だと感じた。

 

中盤以降ずっと、どこか谷崎に似ている。と思っていた。美を求める、完成を求める、現実という不完全で穢れの紛れ込んだものを脱しようとする、その姿勢思想が似ていると思った。たまたま今谷崎作品を読んでいるからかもしれないけれど。自己の二面性、こうしたいという理想の姿とそれに達することができない姿。その二つに溝があるにもかかわらず、積極的に埋めようとしない、埋めようとしてはみるものの、そこへの気持ちはさして真剣なものではない。自分は変わらない、これでいい、これでこそ自分なのだ、という強い肯定が奥底に固く居座っているから。真剣に自己を変えようとしても、十割の力を込めてそれにあたることができないから、そのわずかな残りで身を守る、自分が壊れないように。自分を見失わないように。ここのあたりは谷崎の『異端者の悲しみ』と妙にリンクしてその時代の空気のようなものを感じた。

この作品では、自分でも気づいていない(と思っている)心の声をなかなか受け入れられない朝顔が、人形の夕一と人間の夕一によって、自分の内面や潜在的な欲求の存在を突きつけられ続ける。それは自分の声ではないと否定し続けるけれど、頭のどこかでそれに気づいているように私には見えた。そんな俗世的で綺麗でないとても人間臭い欲求を持っている自分の一面を認めたくないだけのように見えた。その一面は穢らわしいものでもないし、誰もが持っているごく自然のものであるはずなのに、それをなかなか受け入れないのは朝顔の精神的な未熟さなのか。哲学書をあんなに読んでいるというのに。頭でっかちになっていたインテリだったのかもしれない。


 

「だれもとりにこない夕ちゃんとして」

「誰にも愛されていない夕一ですから」

「霧の晴れたところから行くんです」

私が唯一うっと涙をこらえた部分。あまりに孤独で哀しい。誰かを求めたことにより、誰にも求められていない現実を突き付けられた夕一が、変に穏やかで、その差に絶望する。朝顔は霧の晴れたところへ向かう。夕一は霧の中にいる。霧の中でビニールをかぶると雨になる。なんてジメジメした陽気だろう。




最後にひとつどうしても言いたいことは、私がシアターコクーンを出るときに一番思っていたことで、もはやとてつもなく普通のことです。

剛くんの笑顔が好き。

朝顔はほとんど(というかたぶん全く)見せなかった笑顔をカーテンコールで見せてくれたのは剛くんでした。

くしゃっと笑う顔がが好きです。黒目がちな目をきらきらさせて笑う顔が好きです。そんな顔を舞台の最後に見せてくれる剛くんが私は好きです。

こうやって私は森田剛というアイドルであり俳優である人の魅力に取りつかれて離れられなくなっていくんだと思います。

おわり